KOBE ART MARCHE

Interview 14 / 前川強

MAEKAWA meets KOBE ART MARCHEMAEKAWA meets KOBE ART MARCHE

前川強さんは、関西を拠点にした前衛美術集団「具体美術協会(以下、具体)」で活躍し、解散後の現在も精力的に作品づくりを続ける現役のアーティストだ。高校卒業後、大手家電メーカーや映画会社の宣伝部でグラフィックデザイナーとして働きながら、プライベートの時間を使って作品を発表。具体のリーダーだった前衛画家・吉原治良と出会い、1961年、正式に具体の会員となってからは、創立会員よりも若い世代の代表として具体第二期を牽引した。現在は、地元の大阪府箕面市で作品制作に励む日々。前川さんのアトリエ兼ご自宅を訪ね、ご自身とアートとの歩みについておうかがいした。

Photo: Shingo Mitsui  Text: Shingo Mitsui / Yuki Teshiba

戦争中に夢見たアーティスト

1936年生まれの前川さんは戦中・戦後の2つの時代にまたがって過ごした。大阪大空襲で周囲が焼けていく中、学童疎開に参加した経験を持つ前川さんに子ども時代のことをお尋ねした。
小学2年生のときに学童疎開に参加したんです。疎開先が堺市のお寺だったんですが、ここでの生活では信じられないことがいっぱいありました。空襲で防空壕に入ったり、みんな栄養失調でお寺を脱走して畑に潜ってスイカを吸ったり。ぼくは疎開先で玉音放送を聞いて終戦を迎えたんです。戦争が終わったときは自由を感じましたね。
前川さんがアーティストを志したのはいつ頃でしたか?
小学4年生になると、戦後の新教育が始まって、美術の時間にジョアン・ミロやパウル・クレーなどの印象派の絵を見せられて「面白いなー」と見よう見真似で描いていました。絵は元々好きでよく描いていたんです。ある時、絵画コンクールで火事の絵を描いて賞をもらって「絵描きになるんや」とアーティストの夢を抱きました。
そんな小さい頃の夢を実現させたのは凄いですね。
中学校でも先生が褒めてくれたんです。ぼくの絵は写実的な絵ではなく、歪んだ建物を描く抽象的なものでした。コンクールではいつも次点の佳作の賞だったりするんですが、美術の先生は「一番良い」と言ってくれて。先生の後押しもあって、高校は工芸高校の図案科に入学してグラフィックデザインを学びました。
当時グラフィックデザインを学ぶのは珍しかったんですか?
はい。新しかったし、ぼくにとってグラフィックデザイナーはあこがれの職業でした。たばこのラッキーストライクなんか裏表同じパッケージだから道に落ちていてもデザインを見ればそれと分かるし、面白い世界やなと思っていましたね。

デザイナーとアーティスト

前川さんは高校卒業後、大手家電メーカーや映画会社の宣伝部のグラフィックデザイナーとして働く。数々の広告制作を担当していた前川さんだが、どのようにしてアーティスト活動をスタートさせたのだろうか。
家電メーカーの宣伝の仕事は楽しかったんですけど、ずっと「自分の絵を描く時間がほしい」という気持ちがありました。とにかく働かなあかんし、残業ばっかりで時間がなかったんです。そこで残業のない会社を探して「大映映画」という映画会社に転職しました。プライベートな時間で絵も描き始める中で抽象美術系作家が創立した「モダンアート協会」という東京の公募展に応募したりしました。
定職に就きながら美術制作をするのは大変でしたか?
当時、絵だけで食べていくことは考えられなかったし、誰もそんなことは考えてなかった。画材は買わないといけないし、お洒落もしたい。具体に入っても、みんな何かしら仕事してましたからね。月末まで食えるかどうか、というのはしょっちゅうだったのでサラリーマンのときは不安でしたね。ツケで食べたりしていましたから。
グラフィックデザイナーはクリエイティブな職業ですが、アーティスト活動が仕事に影響することなどありましたか?
例えば、映画の広告を作るにしても、前衛映画であればモダンアート的な要素を取り入れたりして工夫しました。今から考えたら古いかも知れないですが、当時は画期的だったんです。電通賞など広告の賞も何度かいただきましたし、仕事は仕事で張り切ってやっていましたね。

関西から海を超えて

前川さんがよく散歩するという箕面東公園周辺の緑道を案内してもらった。30年ほど前は野生の鹿やキジがいたという緑いっぱいの道を歩きながら、どのようにして具体のメンバーになったのか経緯をお聞きした。
モダンアート協会の公募展にはメンバーの嶋本昭三さんや上前智祐さん、鷲見康夫さんらがいました。ヤマト運輸も流通していなかった昔は東京に作品を輸送するのが大変で、自分で木の箱を作って送ったりしていました。ある時、みんなで一緒に作品を輸送しようということになって、その時に嶋本さんが「具体にも出品してみないか?」と誘ってくれたのがきっかけでした。
実際にメンバーになってからはどうでしたか?
リーダーが吉原治良という人なんですけど、この人は「吉原製油」という大きな製油会社の社長なんです。家もすごい豪邸に住んでいて、吉原邸に行くのはいつも楽しみでした。いろんな海外のニュースが入ってくるんです。吉原さんからルーチョ・フォンタナやミシェル・タピエ、ジャクソン・ポロックなど海外の芸術家や批評家のことを教えてもらったりしました。
前川さんは、なぜ具体の美術運動が世界的に有名になったとお考えですか?
メンバーみんなが「日本の中でどうのこうの言ってたんじゃ始まらん、世界に出なあかん」と考えていたんです。だから自分たちの活動も外国に発信しようと、作品や機関誌などを作って世界にアピールしたわけですよ。チャンスがあるたびに海外に郵送していました。それがきっかけでみなさんが具体に興味を示してくれるようになったんです。

新しいスタイルの探求

前川さんのご自宅は1階がアトリエになっている。アトリエには完成作品だけでなく、未完成作品も散見された。ミシンやロープ、麻袋などをボンドで貼り付けた存在感のある作品は一目で前川さんの作品と分かる。また体系的に見ると制作時期で作品のスタイルが全然違うのも前川作品の特徴で、どういう着想から作品が出来上がるのかをおうかがいした。
自分の可能性を膨らませていくというか、これまでやってきた作風を少しずつ変えていく。作品を発表すると「この次はどこを変えようか」と、他の表現方法を模索します。立体作品をやれば、立体作品の要素を平面作品に持って来たら面白いかなとか、そんなことを常に考えていますね。
やっぱり作品を見た時に面白いと思ってもらえるように作品づくりに励んでいるんですか?
語弊があるかも知れないけど、まぁそんな感じですね。今までにない作品というか、新しいと感じてもらえれば。キャンバスをミシンで縫った縫製作品は、ありえないことをできるかなと思ってやったんです。キャンバスを切って貼って、膨らますところは膨らましたりして試行錯誤しながら作品を作っています。
前川さんのスタイルはこれからもどんどん進化していきそうですね。
まだこれからどうなるかわかりませんけどね。もうあんまりできへんかもわからんけど、作品づくりはやれるだけやりたいなと思います。

独立、そして専業作家へ

現在1日をほぼ制作に当てているという前川さん。会社勤めの頃の制作時間はどのぐらいだったのだろうか。
勤めていた当時は夜と日曜日だけですよ。夜も次の日があるから遅くまでは制作できません。グラフィックデザインの仕事はスケッチするので、会社にいるときに自分の作品のスケッチをしたりしてましたね。描いてたら仕事しているみたいやから(笑)。忙しい時はこれやろうとか、帰りにあの絵の具を買って帰ろうとか考えるだけ考えて。そんなことが楽しくて結局会社勤めも10年ぐらい続けてしまいました。
10年も続くとキャリアで自由が利かなくなるんじゃないですか?
勤続年数が長くなれば、会社でもベテランになってきて、いよいよ絵が描けない雰囲気になってくるんです。それで独立してデザインスタジオを作ったんですよ。この人(奥さん)もその時に来てくれてたメンバーなんです。仕事はものすごいあってデザインスタジオも10年ぐらいやっていましたが、その後、仕事を辞めて絵が描ける環境に整えたんです。
横でお話を聞いていただいていた奥さんにもパートナーとして事務所を辞めるときの心境を教えてもらった。
仕事を斡旋してくれていた人にも「辞めるのか」と聞かれましたけど、前川が「とにかく絵を描きたい」と言うので事務所を閉めたんです。当時は子どもがいなかったので、2人だけなら生活もなんとかなるだろうと思っていました。アトリエを建てて、絵画教室を開いたんです。この辺は新興住宅地で子どももたくさんいて、教室は1週間のうち1日とかでしたけど、結構たくさんの人が来てくれました。

まだまだ未完成

事務所を閉めると、絵では賞を獲り、同時期に始めた絵画教室も大盛況だったという。絵画教室が人気になった理由を、前川さんは絵だけでなく自由に造形物を作らせたことが子供たちの創作意欲を焚き付けたんじゃないかと教えてくれた。
教室に通っていた元教え子に聞いてみたら、絵を描くよりも絵を描き終えた後の時間で材料だけ与えて自由に作らせた「ミニ造形」が役に立っていると言っていました。わりかた動くものを作らせたんですけど、その時のことが社会に出て役に立って、今なお覚えていてくれているというのはうれしいですね。
前川さんにとって、ずばりアートとは何でしょうか?
いつも大げさに言うんやけど、人間にとって一番大事なもんだと思うんです。お金とかではないですよね、作品づくりができるのが幸せなんだと思います。僕にとってはそれが一番面白いし、生きる目的がありますよね。
これからの夢や目標はありますか?
まだまだ自分なんて完成していないですし、やりたいことを表現できていないと思います。もっとできると思っているんですよ。何ができるか、それを常に考えています。だから目標というかゴールはないです。
最後に、日本のアートシーンでがんばっている若者にメッセージをお願いします。
大人しいように思いますね。あまりとらわれないで、みんな好きなようにやったらいいと思うんですけどね。僕らのときもそうだったかも分からないけど、流行に流されるところがありました。特にグループというか、たくさん集まって何かするというのは自分に信念がないと怖い感じがします。だからアホやと言われてもいいから自分のこれだと思うものを突き詰める、それが大事だと思います。

ARTIST PROFILE

前川強さん

現代美術家。1936年生まれ。大阪府箕面市出身。具体美術協会の元メンバー。1961年に正式具体メンバーになって以降、1972年の解散まで全「具体展」に作品を発表した。具体解散後、「現代日本絵画展」大賞をはじめ、数々の賞を受賞。現在は精力的に制作活動に取り組んでいる。

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