KOBE ART MARCHE

Interview 13 / 塩谷舞

塩谷舞 meets KOBE ART MARCHE塩谷舞 meets KOBE ART MARCHE

「PR」という立場からWEBライターや編集者、イベント進行役など活躍の幅を広げている塩谷舞さん。元はWEBサイトや広告制作、メディア運営などの事業を展開するクリエイティブカンパニー『CINRA』でWEBディレクター、広報を担当していた。3年間勤務した後、独立。現在は、お菓子のスタートアップ『BAKE』のWEBマガジン『THE BAKE MAGAZINE』の編集長や、漫画家・安野モヨコのWEBディレクション、クリエイターによるイベント 『DemoDay.Tokyo』の運営など、様々な領域で活動中だ。今年9月、塩谷さんが上京して初めて住んだ豪徳寺駅周辺を案内してもらったり、アートイベントで司会進行役をする塩谷さんの許を訪ね、学生時代の話や、インターネットのこれからをうかがった。

Photo: Shingo Mitsui  Text: Shingo Mitsui / Yuki Teshiba

優れた才能を後押ししたい

塩谷さんは、幼い頃からピアノ、演劇、バレエの習い事をしていて、絵を描くのも好きな、芸術全般が得意な子どもだった(ダンスだけは苦手だったそう)。現在、PR、編集者、ライターなどたくさんの仕事をこなせる才能は、子どもの時から自然と身につけていたようだ。
ピアノは三歳から大学三年の頃まで、厳しいけど魅力的な先生のもとで習っていました。1つ1つの音のタッチや座る姿勢、脱力方法などが出来ていないと、練習してきた曲を演奏することも出来なかったんです。一方、演劇は小学校3年生の頃から。『必殺仕事人』のプロデューサー仲川利久さんという方が教えてくださる機会があって、その後すっかり演劇にハマりました。ピアノよりも孤独じゃないから、楽しかった(笑)。事務所に所属して舞台に何度も立ったり、テレビで子役をやらせてもらったりと、いろんな現場を見ることができました。だから学校からサッサと帰って、ピアノや演劇の練習に行ったり。どっちも先生が厳しかったけど、達成感がすごいから、楽しかったですね。
その頃の経験で役立っているものがあれば教えてください。
衝撃的だったのは、演劇の仲川先生の言葉ですね。小学3年の頃だったので、うろ覚えなのですが……。「舞台を観に来るお客さんは、お金を払って、狭い椅子に座らされて、真っ暗にされて、ステージ上の役者だけを見せられる。君たちは、お客さんをそういう過酷な環境にした上で時間を奪っているんだから、それに見合うものを作りなさい」そんなことを教えてくださいました。「お客さんの時間を奪う」という概念が吹き込まれて以来、「奪った時間は楽しんでいただかなくちゃ!」と、とにかくお客さんの満足度を考えて作品に取り組むようになったんです。演劇は辞めてしまいましたが、今もブログを書くときには、その時の先生の台詞がずーっと脳裏にこびりついています。「お前の生み出す文章は、人様の時間を奪うに値するものか?」って。
最初にPRのお仕事がしたいと思ったきっかけは何だったんですか?
私は絵が好きで、たぶんそこそこ“コミュ力”もあったので小学校から高校までずっと学校のパンフレットやしおりの表紙イラストを担当していました。でも高3のとき、自分より圧倒的に才能がある男の子に出会ったんです。悔しかったんですけど、彼の素晴らしい作品がどうして学内で流通しないんだろう?って疑問に思いました。その時「自分より才能ある人を広める存在になりたい」って思ったんです。それで急遽、進路を立命館大学の経営学部から、京都市立芸術大学にチェンジ。作家ではなく、学芸員などになるコースを受験しました。それが、PRの仕事をするきっかけになっていたのかなって思います。ちなみにその同級生とは卒業後会ってなかったのですが、最近、バッタリ再会したんですよ。久しぶりに出会ったその日、偶然にも彼がキヤノン『写真新世紀2015』でグランプリを受賞した日だったんです。迫鉄平くんという素晴らしい作家さんです。

アートと社会のつなぎ方

高校3年生の11月に「芸術家のいる場所へ身を置きたい」と進路を変更し、京都市立芸術大学へと進学した塩谷さん。受験の土壇場での進路変更は両親を驚かせたという。しかし塩谷さんには「才能を繋ぐこと」「作品を広めること」という数々の成功体験が過去にもあり、両親も「その方がずっと、舞らしい進路だ」と後押ししてくれたという。
中学の文化祭で、ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』をやったんです。私は舞台が大好きなので、なんでもやりたかった。でも、自分より歌の上手い子に主役を、ピアノが学年一上手い子に伴奏を、絵が上手い子に背景をお願いして……そして私は台本を書いて、次女の役をやりつつ演劇・歌唱指導です。ちなみに、花形の長女役は学年一の美女にお願いしました。そうして、いろんな才能が組み合わさって輝く瞬間が、すごく楽しかったんですよ。その3年後に進路を考えたとき「私はしかるべき場所に素晴らしい才能を届けたい」と思って、芸大に飛び込むことにしました。
どうして京都市立芸術大学の総合芸術学部にしたんですか?
京都芸大は名門でもあるし、なんといっても学費がリーズナブル(笑)。そして総合芸術学部のWEBサイトに、大学の案内書に”社会とアートを繋げる人材を育てます”とか “編集者やキュレーターなど、様々なフィールドでアートを支えていく人材が必要になります”と書かれていました。当時はアートに関してあまり詳しくなかったですが、「ぜったい私はここに行くべきだ!」と思って3ヶ月間、気が狂ったように受験勉強とデッサンをしまくりました。

コミュニティから生まれたメディア

奇跡的に現役合格を果たしたものの、付け焼き刃の受験で入学した大学生活は、挫折も多かったという。そんな中、次第に「クリエイターをまとめるプロデューサー」という立場を見つけて、大学だけではなく関西圏全体を巻き込んだ美大生とのコミュニティを拡げていった。そこに集まった美大生たちで制作したのが関西アートシーンをPRする集団『SHAKE ART!』だったという。
当時はWEBメディアという発想がなく、エンジニアの友達もいなかったので、フリーペーパーを作りました。東京には、美大生が作る『PARTNER』というフリーマガジンがあって、かつ『美術手帖』の編集部も、どんな媒体の母体も東京。これに対して関西はメディアがほとんどありません。だから、すごい才能があっても全然外に広まらないんです。2009年当時はWEBメディアを作る頭も技術もなかったので、美大生が活動を発信するメディアがなかったんです。活動しているのに取り上げるメディアがない。そこで考えたのがフリーマガジンペーパーを創刊して、東京にも配りまくっていました。というかたちでした。
どのようにSHAKE ART!を作っていったのか教えてください。
当時お世話になっていたベンチャー企業の先輩にアドバイスをもらいながら、まずは広告費、設置場所を確保するため、見よう見まねで作った媒体資料を持って東京に営業に行きました。当時一緒にやっていた内田有香ちゃんという子が超優秀な美大生で、企画書のデザインがすごくお洒落だったので、なにも出してないのにすごく信頼してもらえたんですよ。デザインの力ってすげぇ!って思いましたね。そこで広告をゲットして、創刊号を出して、5000部から1万部に増刷して。フリーマガジンなんですけど、Twitterでみんなが口コミをシェアしてくれてどんどん広まりましたね。SNSすげぇ!って思いました。
大学時代を振り返ってみてどうですか?
大学1年生のときは出来ることもないし、知識も少ない。先生からも「ビジネスをやりたいなら、他の大学に転学した方が良いんじゃない?」って言われたりして、卑屈になってましたね。でもSHAKE ART!が2年目に入ると知名度を得て、先生も認めてくれるようになってきて。ゼミの先生に紹介してもらった宇治にあるお寺「萬福寺」でアートフェスなども開催しました。歌やファッションショー、展示にフリマなどが目白押しで、理想をそのまま形にしたようなフェスで、最高に楽しかったですね。大変でしたけど……。SHAKE ART!は今も関西の学生たちが運営していて、そこには私と同じ京都芸大総合芸術学部の学生も複数人いるようで、感慨深いです。彼女たちはきっと「転学した方が良いんじゃない?」とは言われないでしょうね。

CINRAとの出会い

大学を卒業したした塩谷さんはSHAKE ART!を後輩たちに託し、上京を決断する。塩谷さんはどのようにして社会に出て行ったのだろうか。
「SHAKE ART!をWEB化したらマネタイズ出来るんじゃないか」「アートのコンサルを始めれば良いんじゃないか」という声はありました。でも私としては、ビジネスの基本もわかってなかったし、編集も見よう見まねだったので、ちゃんと会社に行きたいと思ったんです。条件は「東京で」「WEB業界で」「アートに関われること」。また、私の「twitterアカウントを殺さずにいられる会社」という4つ。そうやってCINRAという会社に巡り合いました。CINRA.NETというカルチャーメディアを運営していて、すこし歳上のお兄さんたちが大学時代に始めた会社で、彼らのマインドに惚れました。「弟子入りさせてください!で、私にアート分野を任せてください!」という失礼な連絡をしてましたね(笑)。
CINRA時代に特に印象に残っている仕事はありますか。
「伸びしろを伸ばそう」と言われて、アートではなく、WEBディレクターとして働くことになったのですが、3年目に現在のCINRAのコーポレートサイトのリニューアルを担当したことは印象に残ってますね。スタッフページを作ったり、メディア化したりすることで、お問い合わせ数が数十倍に増えたんですよ。あと私はコアメンバーではなかったのですが、早稲田大学のWEBサイトリニューアル。プレスリリースを出したらどんどん話題が広がって、PRのやりがいを感じました。

CINRAの塩谷”からの脱却

2015年夏、塩谷さんは美術手帖編集長の岩渕さんのトークを司会進行していた。これは、アートに特化したハッカソン『art hack day』の一コマである。同イベントでも企画やPRをしていた塩谷さんだが、その一日はどのような流れになっているのだろうか?
今はPRをしているBAKE、Web全般を手伝っている『コルク』、そして『PARTY』やリクルートの『TECH LAB PAAK』などをウロウロしています。取材ではいろんな場所に行きますね。休みの日は家でごろごろスマホを触ってひたすら意味の無い時間を過してます。でも“ネット廃人”でいることも仕事なので……。
独立に踏み込んだ理由がどこにあったんですか?
3年くらいで独立か起業をするかも、というのは入社前から話していました。会社員でありながらも「アカウントを殺さずに続けてきたTwitter」ですが、発言内容は次第に丸くなっていくんですよね。3年勤務したし、東京での生活にも慣れたし、大学時代に感じたSNSのヤバい可能性を、もう一度プロとして追求したかった。そして、自分自身の声をもって、才能あるクリエイターのPRをしたかったんです。
現在やっている仕事を教えてください。
今はお菓子のスタートアップ『BAKE』のオウンドメディアの編集長、そして佐渡島康平さんが率いる漫画家などのクリエイター・エージェンシー『コルク』では主に、安野モヨコさんのWebサポートをさせてもらっています。他にはクリエイティブ集団『PARTY』の清水幹太さんらと『DemoDay.Tokyo』を立ち上げたり、同じくクリエイティブ領域で活躍する『dot by dot』さんのお仕事をPRしたり、雑誌『Web Designing』で連載をしたり、いろいろです!

時代を創れるスターを

塩谷さんにとってアートとは何ですか?
正直、アート業界向けに作られたアートって100年後には何の役割もなしてないんじゃないかなと思っています。でも、今はアートと呼ばれなくても、新しい仕組みや体験を生み出している人たちは、100年後に伝説になっているはず。スタートアップと、テクノロジーと、メディアアートが入り乱れたような空間は、すごく活気があります。既存の文法にのっとることって結局は伝統芸能で、未来の歴史は別のところから生まれる気がしています。
これからの目標や夢を教えてください。
目標を定めるというよりも、とにかく嗅覚ですね。今いちばん可能性が渦巻いてる場所に身を置きながら、なぜそこがスゴいのか?と俯瞰して分析していきたい。あとは、とにかく、影響力をつけたいです。実力があるのにいろんな事情で埋もれてしまっている人を、最良の方法でPRできる力が欲しいです。スターを生み出して、時代を創りたいです。一過性のムーブメントじゃなくて、100年後にも残る強いものです。私は長い時間をかけて支えて、広めて、残していきたいんです。

ARTIST PROFILE

塩谷舞さん

1988年生まれ。大阪・千里出身。京都市立芸術大学美術学部総合芸術学科卒業。クリエイティブカンパニー『CINRA』で3年間Webディレクター・広報として勤めた後、独立。THE BAKE MAGAZINEで編集長を勤めながら、フリーのライター、WEBディレクター、プランナー、PR、モデレーターなど数々な領域で活躍中。愛称は「しおたん」。

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